中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」1/3

 川島テキスタイルスクールでは、ホームスパン一筋で教えている専任講師がいます。中嶋芳子先生。スクールで約40年、作家活動はそれ以上の年月続けてこられ、ずっと織物の仕事を「続ける」ことの背中を見せてくれています。本校の卒業生である山本梢恵ディレクターが聞き手となり、中嶋先生にインタビューを行いました。その仕事から生き方まで、たっぷりと語られたインタビューを3回に分けてお届けします。初回は、手織りを始めたきっかけ、工房での修行時代、ホームスパンとの出会いから独学で道を切り開いたことについてです。

◆ デザイン職を辞め、京都の工房に弟子入り

——先生は、京都市立芸術大学でデザインを専攻されていました。手織りとの出会いのきっかけについて教えてください。

 最初の出会いは、川島テキスタイルスクールでした。大学卒業後、名古屋でインテリア関係の会社に就職し、私の仕事は紙の上にデザインを描くことでした。その会社が社員教育に力を入れていて、入社1年目、川島織物(現・(株)川島織物セルコン)がテキスタイルの学校を開校したから勉強してきてほしいと上司から言われたんです。ドビー織の講座を1カ月間受講して、そこで織物が現実に出来上がっていく工程を初めて経験しました。

——スクールで学んで、織りが面白くなったのでしょうか?

 こういう世界があるのか、ひょっとして私、デザインを描くよりも向いているかもしれないと思ったんです。自分で織りたい気持ちが次第に強くなり、会社には申し訳なかったのですが2年ほどで退職しました。それから京都に引っ越し、住処を定めて工房を探し始めました。どこか教えてくれるところはないかと思って、まずは大学の先生に相談。そこから人づてに紹介してもらい、染織家の小谷次男先生の工房に弟子入りすることになったんです。

——こうしたいという思いが強ければ強いほど、必然と人とつながっていく流れはありますね。

 出会いですね。「渡りに船」でした。小谷先生の制作を手伝いながら学び、紙の上に描いて終わりではない、ものづくりの現実を目の当たりにして衝撃を受けました。先生は、本当は織れる人が欲しかったんです。しかし当時の私は即戦力ではなかった。それでもやめろとは言わず、私にできることをさせてくれ、織る前の糸の準備や染色から経験しました。

川島テキスタイルスクール2階アトリエにて 1974年

◆民藝ブームの時代背景で

——そこはどんな工房でしたか。

 先生は紬や絣などの着物を主とし、他にも座布団などの工芸品を木綿、絹、麻、葛布、ウールなど季節に合わせて様々な素材で作っていて、工房には撚糸機などの道具も充実していました。そこでいろんな繊維に触れ、織物の仕組みや成り立ちの基本を学び、様々な織物を知る機会を得られたのはよかったです。

——当時、工房は多かったのですか?

 70年代に民藝(民衆的工藝)ブームがあって、各地で盛んな時代だったと思います。小谷先生も、柳宗悦さんの甥で染織家の柳悦孝さんの織物の弟子として学び、どちらかというと民藝寄りの方でした。

——会社を辞め、生活の安定を手放すことに対して不安はなかったですか?

 なかったですね。あまりよく考えなかったからだと思うけど。学生運動など時代の空気もあったのかな。私ももっと長く会社勤めをしていたら不安もあったかもしれないけれど、若かったので。当時は工房がたくさんあって、作られたものは順調に流通していくと思い込んでいました。自分よりだいぶ年上の人がそうして生活が成り立っていたら、私もいけるだろうと考えた。今から思うと、それはうかつでしたね(笑)。

——時代背景もあったかもしれませんが、何より先生の織物に対する強い意志があってこそだと思います。

 この先どうなるか、全くわからなかったけれど、やりたいという気持ちだけで動いていましたね。

◆独学でホームスパンの道を開く

——ホームスパンと出会ったのはいつですか?

 入口は工房でした。小谷先生が冬になると手紡ぎのマフラーを織っていたので、私は原毛を洗ったり、染めたり、毛をほぐしたりといった準備をしていました。その後の糸紡ぎの工程はアメリカ人の留学生が担っていて、それを見ながらウールもこうしたら織物になるのかと、一連の流れをそこで知りました。

 本格的な出会いは個展。先生の兄弟弟子に、蟻川紘直さんという盛岡(岩手県)でホームスパンの工房をされている方がいます。その方が京都で個展することになり、先生がお手伝いに行ったんです。私も観に行き、そこで初めてホームスパンの服地を見て、手織りでこうもできるのかと大きな衝撃を受けました。

——第二の衝撃。そこで羊毛に出会われた。

 はい。工房での見習いは2年で区切りをつけたのですが、自分がこの先どんな織物をしていくのか、はっきりしていなかったんです。木綿や絹でも織ってみたけれど今一つしっくりこなくて、個展での出会いを機にウールにしようと決めました。私自身、デザイン科で勉強してきたこともあって、実用性に魅力を感じます。服だと日常に使えるし、感覚的に毛(羊毛)が好きというのもありました。自ら作った織物を生活の中で使えるという観点を得られたのは、私にとっては大きかったですね。

——ホームスパンは独学ですか?

 独学です。また別の工房に弟子入りしたとしてもお給料はないので、経済的に自前でやって行かないといけない。勤めを辞めて蓄えもそんなになく、自分でやろうと思って始めたんです。たくさんの人や布と出会い、本やワークショップで学びながらだったので雲をつかむような話ではなかったの。小谷工房で見聞きしていたウールを自分なりにやり始めたり、蟻川先生の講座に参加したりして、いろんな所でいろんな人にお世話になりながら自分で組み立ててきました。

——最初から独学で始められたのがすごいです。

 学びは、人から教えてもらわないとできないものばかりではないですから。ホームスパンは昔から家庭で行われてきているし、そんなに難しいことのようには思わなかったです。難しさを理解していなかったのもありますね。

——糸も織物も、正解も間違いもない。そこを追求されたということですよね。

 他と比べようがないから自分の判断で進める。紡いで織るだけでも結構手間がかかることなので、最初は作れたというだけで達成感がありました。

第二回へつづく(2020年10月12日更新予定)