講師インタビュー

堀勝先生インタビュー「染がたり」 2/3

 熟練の染色の専門家でスクールの専任講師である堀勝先生のインタビューの第二回です。染めを教える上で大事にしてきたこと、学生から染色の魔術師と呼ばれたエピソードなどについてお話を聞きました。聞き手は、近藤裕八講師です。

第一回

◆家で自分で染められるように

——普段、先生と接していると、染色に対する探究心を感じます。

 私はただ、今までの経験を伝えているだけ。特に手織りの糸染めの作業の基本は、今も昔も変わらない。ただ、ねじり染や、ぼかし染、ぶっかけ染などの特殊な染め方を考えています。

——年齢を重ねていくと頑固になりがちと言いますか、僕たちや若い世代の意見を聞き入れにくくなる部分があるのかなと思うのですが、堀先生は柔軟に受け入れて、こうしようと提案してくださいます。

 楽しく染色に取り組んでほしいからな。染色に失敗はつきもの。色が合わなかったら染替えしたらいいし、配色を替えてもいい。むら染になっても織物になったらかえって面白い場合もある。染色は頑固になるような仕事ではないで。たかが染色されど染色。ただ、糸だけは丁寧に扱ってほしい。糸さえ弱らず乱れてなかったら何とでもなるから。

——今、染色が面白いと思うことはありますか?

 自分が染めるよりも、私が教えた人が、色合わせが上手になるのを見るのが好きやな。

——スクールで教える上で大切にしてきたことは?

 習った人が、家にある設備で、自分で染められるようになることを心がけて教えています。ただ染めるだけとは違って、染める前にもいろいろな工程があるから、その一つひとつのコツを教えてあげようと思って実践している。糸のひねり方、綛の置き方、脱水機にかける時の糸の置き方など、糸の扱い方一つにも、それぞれ細かなコツがいろいろあるんです。

——授業中は作業に必死で、すぐにピンとこないこともありますが、僕も学生の時に、先生の指導内容をノートに記して後で読み返していました。一人でやる時に、その細かな一つひとつが大切だなと実感します。

 在学中は、私も手助けするから一緒に染められるけど、卒業後、本人が自分で染められるようになってほしいから。染めること以上に、前後の作業工程のアドバイスも私の大きな仕事。これは、私だから教えられることと思っています。

 もう一つ、データ見本を持つことが必要。これから本格的に染めをする人は、まずはデータ見本を作成してほしい。それは、ここの学生だけではなく、織物をする人に広がっていってほしいな。

1990年代初頭の川島テキスタイルスクール染色室にて

◆データ見本作成はスクールの財産

——データの整備。

 私がスクールに配属になった時は勘染め*しかなかったから、第一にデータを整備したんです。基本染法を教えるのも大事ですが、自分で染められるようになるためには、まずデータ見本を持つことが必要。化学染色では染料を配合しないと思った色が出ません。天然染色で色合わせは不要で、基本染法さえ覚えたら色がそれなりに出るから、初めて染める人は草木で染める人が多い。ただ草木は発色の限度があるから、データ作成を兼ねて化学染色の受講を希望する人も多いです。

*勘染め:データがなくても、自分の勘で染料(黄・赤・青の3原色)を入れて、色を合わせていく技術。

——スクールの染色データは、堀先生が来られてから築かれたのですね。

 データ作成講座はスクールの財産です。一般の人は自分で作ったデータ見本を持つことから始めてほしい。ただ、データを持つだけではまだ不十分。色は無制限にあるから、自分の染めたい色が見本にない時はデータ修正が必要になる。データをどう動かしていけばいいかわからない時に、勘染めの技術が必要になってくる。そこでスクールでは、データ作成と勘染めをセットにして習ってほしいと言っています。今、スクールには糸種毎に120〜130色位のデータがあります。

——先生は学生の間で、染色の魔術師と言われていたそうですね。

 授業中、糸をグリーン系に染めたかった学生が、誤ってピンク色に染めてしまい、また新しい糸を使って染めようとしていたことがありました。そこで、新しい糸を使わずに、そのピンクの上から勘で染料を加えて、一瞬にして本人が望むグリーン系の色に変えたところ、それを見た学生たちから「先生、魔術師みたいやな」と言われたこともあったな。

——ワークショップでも、染めの実習を時間内で目一杯されています。その理由は?

 ワークショップは、その目的だけで参加してもらっているから、皆、集中力があるし、遠方から参加してくれる人も多いので、できるだけ多くの成果を持って帰ってほしいという思いもあるな。限られた時間内で作業の段取りを考えるのも勉強になるし、その方が終えた後の充実感が大きいと思う。それは参加者本人が、学びたいという強い気持ちで来てくれるからできること。専門コースは年間を通しての授業やからあまり詰め込み過ぎずに、留学生は習慣が違うからきっちり休憩時間が必要やけどな。

——教えることは、先生にとって第二のキャリア。

 第二のキャリア築こうと思って来たわけではないで。この年齢(81歳)になるまで働くとは思ってなかったから(笑)。ありがたいこっちゃと思ってるんやで。この染色の仕事をやっていてよかったという思いは、事あるごとに浮かんでくるな。入社当時は染色が嫌だったのを辛抱した結果、今に至るから、あの時辞めなくてよかったなという思いでいます。

第三回(最終回)へつづく(2020年9月29日更新予定)

堀勝先生インタビュー「染がたり」 1/3

 川島テキスタイルスクールでは、熟練の染色の専門家が専任講師として教えています。堀勝先生(81歳)。(株)川島織物(現・(株)川島織物セルコン)の染色部門に42年、定年後、スクールに配属され、糸染めの基本から、植物・化学染色とデータ作成、勘染めを20年以上教えている頼りになる存在です。高度な専門性と穏やかな人柄で、国内外からの受講者に広く人気がある堀先生に、このほどインタビューを行いました。聞き手は、本校の卒業生である近藤裕八講師です。染めと共に歩んできた仕事を振り返りながら、たっぷりと語られたインタビューを3回に分けてお届けします。初回は、染色との出会い、糸染めの基本動作から色合わせの勘どころ、皇居関連施設の内装などに携わったエピソードについてです。

◆勘で染める究極、糸が呼ぶ

——染色の仕事との出会いについて教えてください。

 高校卒業後の就職先が(株)川島織物(以下、「川島織物」と記す)で、配属先が染色部門だったのが始まり。高校は工業系で、化学、機械、紡織の3つの科のうち、当時(1950年代)は就職難で、就職がしやすいからと親に言われて、化学科に進んだ。入社後は、美術工芸織物の染色部門に配属され、当初はあまり好きになれずに最初の1〜2年は嫌やな〜と思いながらやっていたんです。親からは「石の上にも三年」頑張れとよく言われてな。でも定年までずっと染色一筋でやってきたおかげで今があるわけで、染色部門に配属されてよかったなあと今は思ってるんやで。

——手染めは、未経験から始められたのですか?

 そう。当時はまだ染色機械はなくて、全て手染め。2人1組になって10〜20キロの糸を毎日染めてたんです。我々新人は相棒と呼ばれ、染色前の染色棒に糸を掛けたりする前準備をし、染色後に水洗や脱水をする下働きを2年ぐらい。夏は蒸気で暑く、水を含んだ糸は重くて過酷な労働やったな。

——その中で、仕事は見て覚えたのですか?

 見て覚えるというよりは、まずは染色の基本動作を身につける。染色時の染浴の中での糸の動かし方や繰り方、水洗時の洗い方、糸を干したり、ねじったりする時のやり方など、ただ染めるだけでなく糸を乱さない扱い方をだいぶ教えてもろたな。色合わせの工程は、まだまだ先のこと。

——染めの後には織りの作業があるので、初めの段階で糸が乱れると、次の工程に影響が出てしまいますから必要な作業ですね。そこから染色に移ったきっかけは?

 人員の高齢化と、仕事量が多くなったことで、私も少しずつ色合わせの作業をやらせてもらうようになったんです。染色とは、まず色合わせをすること。色合わせはプロでも難しく、ある程度は教えてもらうんやけど、上達するには自分の能力と勘が大事。

——勘を鍛えるのに心がけたことはありますか。

 数多く染めることに尽きる。色合わせは人に教えてもらっても上手くはならへんな。人に教えてもらったことはすぐに忘れてしまうから。染料は自分の勘で入れていくけれど、世の中に色は無限にあるから、あらゆる色を染められるようになるためには3〜4年、それ以上かかる。勘で染める究極は、染色中に染糸を見たら、今、糸がどの染料をどれぐらいほしいか糸が呼んでいるようになります。色を見たら、あの染料とこの染料を何対何位で入れるということが、実際に染めなくても頭によぎる。当時は日常生活で散歩していても、何か珍しい色に出会うとそんなことを考えながら歩いてたな。

1958年の(株)川島織物色染工場。当時19歳の堀先生は前列右から二人目。

◆染料の能力を100パーセント出す

——染色の工程の業務に就いてからは、どんなお仕事をされてきたのですか?

 緞帳、山車幕、着物の帯地や文化財の復元も。趣味で染めている時は染色も楽しいかも知れんけど、仕事となるとそういうわけにはいかへん。納期もあるし、製品になってからの品質の責任もあるし、色が落ちるというクレームもある。色が落ちるということは、もちろん使っている染料の能力もあるけれど染め方も悪いということ。いつもその染料の能力を100パーセント出してやるような染め方をするように心がけてきたな。

——42年を振り返って、その中でも楽しかった仕事はありますか?

 日常業務以外に、特注の製品を手がけた時は、ああ染色をやってよかったなと思うことが時々あったな。長い染色生活で見たら、ほんまに一瞬のことやけど。

 当時、天皇・皇后両陛下が乗車される御料車(お召し列車)という特別列車の内装(カーテン、椅子張り等)や、赤坂迎賓館の造営の内装の紋ビロード壁張りなど、皇居関連施設など宮内庁の織物の仕事の染色に携わったことが多くありました。その中でも印象深いのは、「即位の礼」(令和元年10月22日)が挙行された皇居正殿松の間の仕事。天皇陛下の御座の後ろに、紫地に金糸で大王松という松の柄を織り込んだ大きなつい立てが置かれている。そのつい立ての織物を、最初の色出しから本番まで染めました。紫でもいろいろあるけれど、特にあの色は帝王紫という名前がついているほど高貴な色。設計の担当者と何度も打ち合わせてテスト染めをし、本番でやっと「この色でいいです」と言われた時は嬉しかったな。正殿松の間がテレビに映ると、その仕事を思い出します。国の公式行事等で織物がテレビに映った時、帝王紫の色合いを是非見てほしいです。

 それから、奈良・法隆寺近くにある藤ノ木古墳の仕事もありました。発掘調査の結果、見つかった石棺があって、その中に葬られていた人が着ておられた織物を復元するプロジェクトの一員として参加。それまでは日常業務に追われていたのもあって染色の歴史や古代の染色にあまり興味はなかったけれど、これを機に、参考文献を読んで勉強したな。

第二回へつづく(2020年9月23日更新予定)