月別アーカイブ: 2020年10月

スクールの窓から 4 「テキスタイルの現場」織下絵

川島テキスタイルスクールの専門コースでは、様々な先生が教えています。専任講師をはじめ、外部からも作家や技術者などを講師に招き、風通しのいい環境を作っています。このシリーズでは、そんな専門コースの授業の一部をご紹介します。(不定期掲載)

本科(1年次)では修了制作の一環として、綴織のタペストリーのグループ制作に取り組んでいます。スクールだからこそ実現する授業として、(株)川島織物セルコンから各現場の専門家を招いて「テキスタイルの現場」講義シリーズを行い、助言を受けながら制作を進めます。初回は、呉服商材のデザインを手がける山中正己さんによる授業「身装・美術工芸の現場から学ぶ『織下絵の講義、綴れ工場見学』」が行われました。

織下絵とは、原画を完成品と同じ寸法に拡大し、綴織を織るための図案を描いたもの。いわば、絵から織物にするための段階を可視化していく作業で、そこで色をどう拾い、どう境界線を引いて、無限の色数をどう整理するか。「正確さと緻密さが重要です」と山中さんは話し、そのポイントや注意点をくまなく紹介、制約の中で質の高いものづくりのための要素が詰まった講義となりました。

(株)川島織物セルコン 工芸棟緞帳制作現場

工場見学では、緞帳の製作現場へ。約20メートル幅の緞帳の織下絵の一部を見た上で、実際に織っている現場を歩きました。各工程が分業になることから、下絵から配色、織り手へと連携するのに綿密なコミュニケーションが大切。「線の引き方、色の分け方一つにもコツがあり、次の工程の人がわかりやすい指示を心がけ、二人三脚で意見交換しながら進めています」という現場の声を聞きました。作品、商品、スケール感の違いから、ものづくりの広がりを知る。共通するのは、細部まで気を配る姿勢。現場でのこだわりや進め方にヒントを得て、タペストリー制作に落とし込んでいきます。

◆ 山中さんにとって織りとは? 「美しさ」

私はデザイン一筋のキャリアで、図案を描き続けて48年になります。最初は絵画の複製でも絵に近づけようとしましたが、織物になる段階や、出来上がった物の美しさに触れる中で、絵にはない、織物ならではの表現があると知っていきました。それは緯糸を一越ずつ織り込んで生まれる力強さや風合いですが、言葉では表しきれない。織物の美しさが好きです。

〈山中正己さんプロフィール〉

やまなか・まさみ/織物主体の工業高校デザイン科で平面デザインを中心に絵画・美術一般を学び、1972年、(株)川島織物(現・川島織物セルコン)入社。商品本部生産部呉服開発グループ所属。入社以降ずっと呉服製品のデザインに携わっており、帯をはじめ、打掛、和装小物などの図案を作成している。

中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」3/3

 作家としてホームスパンに40年以上、スクールの専任講師としても1979年から継続的に携わっている中嶋芳子先生に、本校の卒業生である山本梢恵ディレクターがインタビューを行いました。3回シリーズの最終回は、織物と時代の距離感、中嶋先生から見たスクールの特長、先生にとっての織りとは、糸から教わることについてお話いただきました。

第一回

第二回

◆  手織りの学びは、生きていく上の手助けに

——先生は、いつからスクールで講師を始められたのですか?

 1979年からです。スピニングを教える講師を探しているという話があった時に、私を紹介してくれた方がいたんです。本科でのスピニングとホームスパンの授業から始まり、ワークショップも担当するようになり、その後、服地を織りたいという生徒さんからの要望があり指導を頼まれる、といった風につながっていきました。

——スクールの開校から6年経った頃。当時の学生さんは何を求めてスクールに来られていたのでしょうか?

 その頃は、織物がそう遠くない時代でした。純粋に手織りをやりたい人が多かったですね。西陣で仕事をしていた人や、その後、八丈島に移住して黄八丈を織るようになった人、ブティックにお勤めの人などいろいろ。それから短大を卒業してから来る人など、時代に応じて学校もそれなりに変わってきたなという印象です。

——確かにそうですね。私も、とにかく織物が好きで続けたいという気持ちで、大学のテキスタイル学科を卒業後に更にスクールで学びました。当時の人たちは必ずしも就職を目指していたわけではなく、習った織りの技術を今度どう生かしていこうか、という雰囲気でした。今は、入学前から就職を考える人が増えた印象があります。それに伴い、学校のあり方も変わってきました。そんな変化について、どう思われますか?

 難しいですよね。このスクールの主体は手織りですが、実際の市場は機械生産が主流で、化学繊維の場合は特に手織りから離れてしまう。その中で、織物の良さを経済活動につなげていくことは大事ですが、効率優先で考えると違う方向になる。スクールで学ぶ人は、目先の生産性とは違う目線を持てるようになればと思います。それがすぐに就職につながるかはわからないけど、生きていく上では何かしらの手助けになるので。今は、生活の背景にある実感があまりにも遠のいている。手織りに取り組むことで、物がどうやって作られ、人の生活がどんな背景で成り立っているかを実感するきっかけになります。それは、ものの本質を見る目を養うことにもつながるのではないかと思います。

「公開工房」でスピニングを教える中嶋先生 1990年

◆  時間感覚を捉え直す機会に

——スクールでの約40年を振り返って、印象深いことはありますか?

 1980年代後半、毛紡ぎの黎明期に先がけてスクールが海外から講師を呼んで、「公開工房」としてワークショップを開催していた時期があります。そこで、オーストラリアから来られたレイニー・マクラーティ先生(Lorraine MacLartyさん)が10年以上、毛の繊維の手紡ぎのワークショップをされていて、私がアシスタントに入ることがありました。レイニーさんは理論的に教える方。私は、それまで感覚的に行っていたので、今までとは異なった見方があると知れたことが刺激になりました。理論は、学ぶ人からすると導入の手立てになる安心があると思います。ただ数字だけでわかった気になっても、現実はその通りにはならない。だから、理論で組み立てることを踏まえた上で、実践における感覚が大事だと私は思うの。

——スクールが開校して47年。ここまで続いてきたのは、この学校だからこその特長があると思うのですが、それは何でしょう?

 年齢や国籍を問わずに、受け入れの間口が広いこと。時代が変わっても、基礎からしっかりと学べる土台は変わらないこと。実際に手を動かして制作経験が積めること。紋切り型にシステムに従うのとは違い、創造していくための時間と空間が存分に持てることでしょうか。

——静かな環境で取り組めるのは、時間感覚を捉え直す機会にもなります。

 学生の中でも、そんな時間の使い方の良さを理解してくれる人もいますね。

——そういう意味では、自然に囲まれたこのスクールは、制作に集中できて、静かに自分と向き合える環境です。

 人生の中で、そんな時間を持つのは大事だと思います。学生を見ていると、2年経って修了する頃には、表情が変わる人も結構います。

——私はこれができる、と自信を持って言えるものに出会うからでしょうか。1、2年でそこまで変われるのもスクールの特色なのかもしれません。学生に向けて、伝えたいことはありますか。

 今の時代は変化のスピードが速くて先が見えず、一つのことを続けること自体、難しい状況があるかもしれません。好きなことを続けるのに、いろんな方向から物事を見ながら進み、長い目で大きな一つの流れとして捉えると道筋が見えてくることがあります。自分の軸を定めて、そこから定点観測するように世の中の流れを見る。時に自分が流されても、流されている自分を客観視できるような状態でいる。そうした自分の基盤があれば楽じゃないかなと思います。

◆織物は考える手立てになる

——先生にとっての織物とは?

 何でしょうね、うーん……、安心。織物をやっていることで気持ちが落ち着くし、共にあるという安心感を得られますね。

——私も聞かれたら困る質問です(笑)。織りは、自分にとって特別なものではなく、暮らしの一部です。

 制作自体、時間も手間もかかって大変ですが、織っている間は没頭できて気持ちいいですね。だから、(コロナによる)自粛期間中でも家にいることがそんなに大変なことではなかったの。

——先生の織物に対する思いは?

 これからも織物が残っていってほしい。人との関わりを含めて、織物はいろんなことを考える手立てになると思うんです。手織物をつくるのには、長い時間がかかります。糸だけをみても、私の場合100グラム分の糸を作るのに、原毛を洗い、乾かしてほぐして、カードがけして糸にするまで何日もかかる。こんなに時間をかけても、同量の機械による紡績糸の値段を考えると、私は何をしているのかしらと思うこともありましたが、もう比較することをやめました。気にしない。今のとても慌ただしい世の中においても、ゆとりを持って眺めることの大切さを糸が教えてくれています。そのこと自体が、私にとっての価値であり、かけがえのないことだと思うので。

——約40年、スクールと共に歩んでこられた中嶋先生。今回のインタビューで、「織物とは共にある安心感」と語ってくださった言葉が、とても深いメッセージでした。手織りに向き合う価値観や、シンプルな暮らしを大切にされてきたことが、ずっと織物の仕事を続けることへとつながっているんですね。
これからスクールを設立50年、60年へとつなげていくために、時代に合った学びの形、変わるものと変わらないもの、スクールの伝統と理念を根底に未来像を描きながら、私たちも歩んでいきたいと思います。本日はありがとうございました。

 このように昔を振り返るのは、私にとっても初めての機会でした。ありがとうございました。昔から今を思い返して、時代の変化を改めて感じました。いくら世の中が大きく変わっても、私は一本の糸から始めたい。

おわり

中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」2/3

ホームスパンの作家として、スクールの専任講師として、人生の大半を織物と共に歩んでこられた中嶋芳子先生のインタビューの第二回です。ホームスパンの面白さ、ものとの関わりを見つめ直すこと、シンプルな生き方、40代から始めた山登りと、そこから得た独自の織り感覚について語っていただきました。聞き手は、山本梢恵ディレクターです。

第一回

◆ 守備範囲が広い羊毛

——ホームスパンという織物の魅力をどこに感じていますか?

 実用性と羊毛の豊かさです。羊毛は、羊の種類が多くて、敷物などハードなものから肌に触れるソフトで繊細なものまで、作れるものの守備範囲が広い。それだけの材料を提供できる豊かさが羊にはあります。日本では気候や文化の上で、羊の種類を分けて飼うほどの条件が揃っていませんが、羊毛自体は幅広く、自分の制作に合った糸で織れるところが面白いです。

——そこに尽きますよね。

 既製の糸で作ると限られた種類から選び、こちらが糸の方に合わせないといけなくなります。手紡ぎをすると、糸の太さ・細さ、撚りの硬さ・柔らかさ、質感など糸が本来持っている様々な要因を考えて紡ぎ分けられるのが醍醐味です。自分の力量でできるか分からなくても、やってみようと踏み出す。それで上手くいってもいかなくても、チャレンジしたことの結果から学べるので、その面白さが今も続いていますね。

——今やってみたいことは?

 今、服地を織っています。私がホームスパンで衝撃を受けたのは、蟻川先生の服地の個展で見た、もののボリューム、布としての有益さ。通気性や弾力性があって、軽くて着やすい、といった服としての必要条件が揃っている。生地が服へと仕立てられ、次に使えるのが面白い。そんな服地を作りたいと前から思っていたけれど、取りかかるには時間が必要。今は以前よりも時間ができて、昔に買った材料もある。年齢的に体力の限界もあるので今やらないと、と思って注力しています。

◆織物を通して素材、歴史や社会の動きに目がいく

——暮らしと織物は密な関係にあると思っていますか?

 そう思っていますが、今は身に着けるものでも天然繊維が少なくなり、織物よりもジャージやニット系が多いじゃないですか。変化のスピードが早くて、これからどうなっていくのかと考えます。

——環境のことも頭に置きながら作品作りをしている?

 織物、特に天然繊維は環境に密接に関わるので、すごく考えますね。特に天然ものは、お米のように年に一度しか収穫できないものが多い。羊の毛も日本だと毛刈りは年に一回。麻や綿も収穫時期がある。対して化学繊維は石油などから作られるので、季節や気候とは関係なく製造できる。便利な一方、それで占められることに懸念があります。日常生活において、人間が自然との距離を広げていくことになり、それはよくないと思うんです。

——そう思いますね。

 日々関わっている衣食住の全てが自然から生まれていて、限られた単位でしか作れないと実感できたら、ものを大事にする気持ちが生まれると思うけれど、今はそうじゃない世の中だと思う。ものとの関わりを繊維を通じて学び、感じてもらうことは大事だと思っています。たとえば絹やウール、綿、麻の材質や肌触り。着る機会があればその気持ち良さがわかるけれど、それが遠のくと興味を持たなくなる。

——スクールの授業では天然繊維を主に扱っているので、その良さと大切さをじんわり感じてもらい、ものとの関わりを見つめ直す方向につながればと私も思っています。中嶋先生のそうした意識は、織物に携わる中で深まっていったのですか?

 そうですね。制作の過程で、自然と材料にも興味を持ちます。どんな経緯で、どんな人たちが羊を育て、現状がどうなっているかというように織物を通して材料から、歴史や社会の動きへと視野が広がります。作っていくことは楽しいし、嬉しい。その一方で難しさも見えてきます。

織り上げたばかりの服地

◆身の回りをあっさりと

——先生がずっと織物を続けてこられた基軸はありますか?

 とにかく好きだからです。そして、あまりいろんなものを背負い込まないようにしています。物を持つと維持に気を配るなどエネルギーを使うので、なるべく身の回りをあっさりしておく。自分なりの価値観があると楽ですね。私は、京都の昔ながらの長屋に住んでいます。そこは3部屋しかなく、一番広くて6畳間。機を二台置いていて、その機と川の字になって寝ているの。そんな作業場のような空間で生活していても、私にとっては不足がない。それで満足できる。それが嫌だったらお金を貯めてアトリエを作るけれど、そのために働く時間を割くのも嫌なんです。時間のある限り織物に費やしたいから、あるもので何とかやりくりできたら、それが一番いい。

——自分なりの価値観は、いつから見えてきたのでしょうか?

 織物と並行してできていますね。織物が形を成していくと同時に、世の中をその時々の目で見ていくと、人それぞれの生き方がある中で、自分はこういう形でものづくりして一生過ごすのがいいと思えるようになりました。作ることが自然と教えてくれる。自分なりにやりたいことをして過ごせているので、これでいいと思っています。

◆織りと山と、最小単位から無限の広がりへ

——時間の速さの尺度でなく、作る過程において時間をかけることの豊かさやゆとりは、すべて自分に跳ね返ってくる。そんな根本が織りにはありますね。さて、中嶋先生を語る上で山登りは外せません。40代で始めたそうですが、織りには体力も必要と見越してのことでしょうか?

 動機は、遊び(笑)。ただ面白いから山に行く。それまでは体力に自信がなくてね、結果的にはよかったと思います。織りは仕事で山は遊びですが、どちらも一生懸命、好きな気持ちがあってこそ続いています。

——山の面白さは?

 日常を忘れて、歩くことに集中する。そうしないと危険な場所もあるので。織りは神経を使うので、神経を休ませてあげるために山に行くのもあるかもしれないです。

——織る時は家に引きこもるので、内と外の活動はバランスがいいですね。

 織物は経糸と緯糸が交差する、最小の単位から始まる小さな世界。山は広くて、自然のスケール感が全く違う。景色を眺めていると、自然の力の計り知れなさを実感します。二つは、私の中でつながってくるんです。織物は、織機の大きさによって幅が決まるので、物理的には有限なもの。ですが、布地として構成される、小さく組み込んだ組織そのものは、果てしなく広がる感覚になる時があります。布は、その中で切り取られた一部というイメージ。織物には、小さな世界から無限の広がりを感じられる面白さがあると感じます。

——先生は、ワークショップを終えた翌日に山に行かれたりして精力的です。そうして気分を変えることも大事でしょうし、行った先に疲れを超える何かがきっとあるのだろうと思います。そんな生き方は魅力的です。

 山歩きを続けていると、以前は同じコースをもっと早く歩けたのに、足場の悪い所を何の恐怖もなく歩けたのに、と気づいたりして体力が落ちていくのがわかります。山も織りも体力が必要。ホームスパンは特にそうです。山は体力がなくなると行けなくなりますが、織物は続ける中で小さな気づきがいくつも重なってきて、自分がやっていることの後押しをしてくれます。

第三回(最終回)へつづく(2020年10月20日更新予定)

英語ワークショップ開催のお知らせ

入国制限があるため日本に住んでいらっしゃる方向けとなりますが、新しい英語のワークショップを開催します。5日間で織りの基本を学びます。

英語で織り用語を学びたい日本の方も参加できます!授業はすべて英語なので、日常会話に困らない程度の英語レベルが必要です。皆さまのご参加をお待ちしています!

  • Date: Dec. 15 (Tue.) – 19 (Sat.), 2020 (5 days) 9:00-16:00
  • Tuition Fee: 55,000 yen (without tax, materials fee included)
  • Capacity: 4-8 students
  • Language: English
  • Application Deadline: 9:00 (JST) Nov. 16 (Mon.), 2020

詳細、お申し込み方法はこちらから:Introduction to Weaving

中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」1/3

 川島テキスタイルスクールでは、ホームスパン一筋で教えている専任講師がいます。中嶋芳子先生。スクールで約40年、作家活動はそれ以上の年月続けてこられ、ずっと織物の仕事を「続ける」ことの背中を見せてくれています。本校の卒業生である山本梢恵ディレクターが聞き手となり、中嶋先生にインタビューを行いました。その仕事から生き方まで、たっぷりと語られたインタビューを3回に分けてお届けします。初回は、手織りを始めたきっかけ、工房での修行時代、ホームスパンとの出会いから独学で道を切り開いたことについてです。

◆ デザイン職を辞め、京都の工房に弟子入り

——先生は、京都市立芸術大学でデザインを専攻されていました。手織りとの出会いのきっかけについて教えてください。

 最初の出会いは、川島テキスタイルスクールでした。大学卒業後、名古屋でインテリア関係の会社に就職し、私の仕事は紙の上にデザインを描くことでした。その会社が社員教育に力を入れていて、入社1年目、川島織物(現・(株)川島織物セルコン)がテキスタイルの学校を開校したから勉強してきてほしいと上司から言われたんです。ドビー織の講座を1カ月間受講して、そこで織物が現実に出来上がっていく工程を初めて経験しました。

——スクールで学んで、織りが面白くなったのでしょうか?

 こういう世界があるのか、ひょっとして私、デザインを描くよりも向いているかもしれないと思ったんです。自分で織りたい気持ちが次第に強くなり、会社には申し訳なかったのですが2年ほどで退職しました。それから京都に引っ越し、住処を定めて工房を探し始めました。どこか教えてくれるところはないかと思って、まずは大学の先生に相談。そこから人づてに紹介してもらい、染織家の小谷次男先生の工房に弟子入りすることになったんです。

——こうしたいという思いが強ければ強いほど、必然と人とつながっていく流れはありますね。

 出会いですね。「渡りに船」でした。小谷先生の制作を手伝いながら学び、紙の上に描いて終わりではない、ものづくりの現実を目の当たりにして衝撃を受けました。先生は、本当は織れる人が欲しかったんです。しかし当時の私は即戦力ではなかった。それでもやめろとは言わず、私にできることをさせてくれ、織る前の糸の準備や染色から経験しました。

川島テキスタイルスクール2階アトリエにて 1974年

◆民藝ブームの時代背景で

——そこはどんな工房でしたか。

 先生は紬や絣などの着物を主とし、他にも座布団などの工芸品を木綿、絹、麻、葛布、ウールなど季節に合わせて様々な素材で作っていて、工房には撚糸機などの道具も充実していました。そこでいろんな繊維に触れ、織物の仕組みや成り立ちの基本を学び、様々な織物を知る機会を得られたのはよかったです。

——当時、工房は多かったのですか?

 70年代に民藝(民衆的工藝)ブームがあって、各地で盛んな時代だったと思います。小谷先生も、柳宗悦さんの甥で染織家の柳悦孝さんの織物の弟子として学び、どちらかというと民藝寄りの方でした。

——会社を辞め、生活の安定を手放すことに対して不安はなかったですか?

 なかったですね。あまりよく考えなかったからだと思うけど。学生運動など時代の空気もあったのかな。私ももっと長く会社勤めをしていたら不安もあったかもしれないけれど、若かったので。当時は工房がたくさんあって、作られたものは順調に流通していくと思い込んでいました。自分よりだいぶ年上の人がそうして生活が成り立っていたら、私もいけるだろうと考えた。今から思うと、それはうかつでしたね(笑)。

——時代背景もあったかもしれませんが、何より先生の織物に対する強い意志があってこそだと思います。

 この先どうなるか、全くわからなかったけれど、やりたいという気持ちだけで動いていましたね。

◆独学でホームスパンの道を開く

——ホームスパンと出会ったのはいつですか?

 入口は工房でした。小谷先生が冬になると手紡ぎのマフラーを織っていたので、私は原毛を洗ったり、染めたり、毛をほぐしたりといった準備をしていました。その後の糸紡ぎの工程はアメリカ人の留学生が担っていて、それを見ながらウールもこうしたら織物になるのかと、一連の流れをそこで知りました。

 本格的な出会いは個展。先生の兄弟弟子に、蟻川紘直さんという盛岡(岩手県)でホームスパンの工房をされている方がいます。その方が京都で個展することになり、先生がお手伝いに行ったんです。私も観に行き、そこで初めてホームスパンの服地を見て、手織りでこうもできるのかと大きな衝撃を受けました。

——第二の衝撃。そこで羊毛に出会われた。

 はい。工房での見習いは2年で区切りをつけたのですが、自分がこの先どんな織物をしていくのか、はっきりしていなかったんです。木綿や絹でも織ってみたけれど今一つしっくりこなくて、個展での出会いを機にウールにしようと決めました。私自身、デザイン科で勉強してきたこともあって、実用性に魅力を感じます。服だと日常に使えるし、感覚的に毛(羊毛)が好きというのもありました。自ら作った織物を生活の中で使えるという観点を得られたのは、私にとっては大きかったですね。

——ホームスパンは独学ですか?

 独学です。また別の工房に弟子入りしたとしてもお給料はないので、経済的に自前でやって行かないといけない。勤めを辞めて蓄えもそんなになく、自分でやろうと思って始めたんです。たくさんの人や布と出会い、本やワークショップで学びながらだったので雲をつかむような話ではなかったの。小谷工房で見聞きしていたウールを自分なりにやり始めたり、蟻川先生の講座に参加したりして、いろんな所でいろんな人にお世話になりながら自分で組み立ててきました。

——最初から独学で始められたのがすごいです。

 学びは、人から教えてもらわないとできないものばかりではないですから。ホームスパンは昔から家庭で行われてきているし、そんなに難しいことのようには思わなかったです。難しさを理解していなかったのもありますね。

——糸も織物も、正解も間違いもない。そこを追求されたということですよね。

 他と比べようがないから自分の判断で進める。紡いで織るだけでも結構手間がかかることなので、最初は作れたというだけで達成感がありました。

第二回へつづく(2020年10月12日更新予定)