講師インタビュー

中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」3/3

 作家としてホームスパンに40年以上、スクールの専任講師としても1979年から継続的に携わっている中嶋芳子先生に、本校の卒業生である山本梢恵ディレクターがインタビューを行いました。3回シリーズの最終回は、織物と時代の距離感、中嶋先生から見たスクールの特長、先生にとっての織りとは、糸から教わることについてお話いただきました。

第一回

第二回

◆  手織りの学びは、生きていく上の手助けに

——先生は、いつからスクールで講師を始められたのですか?

 1979年からです。スピニングを教える講師を探しているという話があった時に、私を紹介してくれた方がいたんです。本科でのスピニングとホームスパンの授業から始まり、ワークショップも担当するようになり、その後、服地を織りたいという生徒さんからの要望があり指導を頼まれる、といった風につながっていきました。

——スクールの開校から6年経った頃。当時の学生さんは何を求めてスクールに来られていたのでしょうか?

 その頃は、織物がそう遠くない時代でした。純粋に手織りをやりたい人が多かったですね。西陣で仕事をしていた人や、その後、八丈島に移住して黄八丈を織るようになった人、ブティックにお勤めの人などいろいろ。それから短大を卒業してから来る人など、時代に応じて学校もそれなりに変わってきたなという印象です。

——確かにそうですね。私も、とにかく織物が好きで続けたいという気持ちで、大学のテキスタイル学科を卒業後に更にスクールで学びました。当時の人たちは必ずしも就職を目指していたわけではなく、習った織りの技術を今度どう生かしていこうか、という雰囲気でした。今は、入学前から就職を考える人が増えた印象があります。それに伴い、学校のあり方も変わってきました。そんな変化について、どう思われますか?

 難しいですよね。このスクールの主体は手織りですが、実際の市場は機械生産が主流で、化学繊維の場合は特に手織りから離れてしまう。その中で、織物の良さを経済活動につなげていくことは大事ですが、効率優先で考えると違う方向になる。スクールで学ぶ人は、目先の生産性とは違う目線を持てるようになればと思います。それがすぐに就職につながるかはわからないけど、生きていく上では何かしらの手助けになるので。今は、生活の背景にある実感があまりにも遠のいている。手織りに取り組むことで、物がどうやって作られ、人の生活がどんな背景で成り立っているかを実感するきっかけになります。それは、ものの本質を見る目を養うことにもつながるのではないかと思います。

「公開工房」でスピニングを教える中嶋先生 1990年

◆  時間感覚を捉え直す機会に

——スクールでの約40年を振り返って、印象深いことはありますか?

 1980年代後半、毛紡ぎの黎明期に先がけてスクールが海外から講師を呼んで、「公開工房」としてワークショップを開催していた時期があります。そこで、オーストラリアから来られたレイニー・マクラーティ先生(Lorraine MacLartyさん)が10年以上、毛の繊維の手紡ぎのワークショップをされていて、私がアシスタントに入ることがありました。レイニーさんは理論的に教える方。私は、それまで感覚的に行っていたので、今までとは異なった見方があると知れたことが刺激になりました。理論は、学ぶ人からすると導入の手立てになる安心があると思います。ただ数字だけでわかった気になっても、現実はその通りにはならない。だから、理論で組み立てることを踏まえた上で、実践における感覚が大事だと私は思うの。

——スクールが開校して47年。ここまで続いてきたのは、この学校だからこその特長があると思うのですが、それは何でしょう?

 年齢や国籍を問わずに、受け入れの間口が広いこと。時代が変わっても、基礎からしっかりと学べる土台は変わらないこと。実際に手を動かして制作経験が積めること。紋切り型にシステムに従うのとは違い、創造していくための時間と空間が存分に持てることでしょうか。

——静かな環境で取り組めるのは、時間感覚を捉え直す機会にもなります。

 学生の中でも、そんな時間の使い方の良さを理解してくれる人もいますね。

——そういう意味では、自然に囲まれたこのスクールは、制作に集中できて、静かに自分と向き合える環境です。

 人生の中で、そんな時間を持つのは大事だと思います。学生を見ていると、2年経って修了する頃には、表情が変わる人も結構います。

——私はこれができる、と自信を持って言えるものに出会うからでしょうか。1、2年でそこまで変われるのもスクールの特色なのかもしれません。学生に向けて、伝えたいことはありますか。

 今の時代は変化のスピードが速くて先が見えず、一つのことを続けること自体、難しい状況があるかもしれません。好きなことを続けるのに、いろんな方向から物事を見ながら進み、長い目で大きな一つの流れとして捉えると道筋が見えてくることがあります。自分の軸を定めて、そこから定点観測するように世の中の流れを見る。時に自分が流されても、流されている自分を客観視できるような状態でいる。そうした自分の基盤があれば楽じゃないかなと思います。

◆織物は考える手立てになる

——先生にとっての織物とは?

 何でしょうね、うーん……、安心。織物をやっていることで気持ちが落ち着くし、共にあるという安心感を得られますね。

——私も聞かれたら困る質問です(笑)。織りは、自分にとって特別なものではなく、暮らしの一部です。

 制作自体、時間も手間もかかって大変ですが、織っている間は没頭できて気持ちいいですね。だから、(コロナによる)自粛期間中でも家にいることがそんなに大変なことではなかったの。

——先生の織物に対する思いは?

 これからも織物が残っていってほしい。人との関わりを含めて、織物はいろんなことを考える手立てになると思うんです。手織物をつくるのには、長い時間がかかります。糸だけをみても、私の場合100グラム分の糸を作るのに、原毛を洗い、乾かしてほぐして、カードがけして糸にするまで何日もかかる。こんなに時間をかけても、同量の機械による紡績糸の値段を考えると、私は何をしているのかしらと思うこともありましたが、もう比較することをやめました。気にしない。今のとても慌ただしい世の中においても、ゆとりを持って眺めることの大切さを糸が教えてくれています。そのこと自体が、私にとっての価値であり、かけがえのないことだと思うので。

——約40年、スクールと共に歩んでこられた中嶋先生。今回のインタビューで、「織物とは共にある安心感」と語ってくださった言葉が、とても深いメッセージでした。手織りに向き合う価値観や、シンプルな暮らしを大切にされてきたことが、ずっと織物の仕事を続けることへとつながっているんですね。
これからスクールを設立50年、60年へとつなげていくために、時代に合った学びの形、変わるものと変わらないもの、スクールの伝統と理念を根底に未来像を描きながら、私たちも歩んでいきたいと思います。本日はありがとうございました。

 このように昔を振り返るのは、私にとっても初めての機会でした。ありがとうございました。昔から今を思い返して、時代の変化を改めて感じました。いくら世の中が大きく変わっても、私は一本の糸から始めたい。

おわり

中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」2/3

ホームスパンの作家として、スクールの専任講師として、人生の大半を織物と共に歩んでこられた中嶋芳子先生のインタビューの第二回です。ホームスパンの面白さ、ものとの関わりを見つめ直すこと、シンプルな生き方、40代から始めた山登りと、そこから得た独自の織り感覚について語っていただきました。聞き手は、山本梢恵ディレクターです。

第一回

◆ 守備範囲が広い羊毛

——ホームスパンという織物の魅力をどこに感じていますか?

 実用性と羊毛の豊かさです。羊毛は、羊の種類が多くて、敷物などハードなものから肌に触れるソフトで繊細なものまで、作れるものの守備範囲が広い。それだけの材料を提供できる豊かさが羊にはあります。日本では気候や文化の上で、羊の種類を分けて飼うほどの条件が揃っていませんが、羊毛自体は幅広く、自分の制作に合った糸で織れるところが面白いです。

——そこに尽きますよね。

 既製の糸で作ると限られた種類から選び、こちらが糸の方に合わせないといけなくなります。手紡ぎをすると、糸の太さ・細さ、撚りの硬さ・柔らかさ、質感など糸が本来持っている様々な要因を考えて紡ぎ分けられるのが醍醐味です。自分の力量でできるか分からなくても、やってみようと踏み出す。それで上手くいってもいかなくても、チャレンジしたことの結果から学べるので、その面白さが今も続いていますね。

——今やってみたいことは?

 今、服地を織っています。私がホームスパンで衝撃を受けたのは、蟻川先生の服地の個展で見た、もののボリューム、布としての有益さ。通気性や弾力性があって、軽くて着やすい、といった服としての必要条件が揃っている。生地が服へと仕立てられ、次に使えるのが面白い。そんな服地を作りたいと前から思っていたけれど、取りかかるには時間が必要。今は以前よりも時間ができて、昔に買った材料もある。年齢的に体力の限界もあるので今やらないと、と思って注力しています。

◆織物を通して素材、歴史や社会の動きに目がいく

——暮らしと織物は密な関係にあると思っていますか?

 そう思っていますが、今は身に着けるものでも天然繊維が少なくなり、織物よりもジャージやニット系が多いじゃないですか。変化のスピードが早くて、これからどうなっていくのかと考えます。

——環境のことも頭に置きながら作品作りをしている?

 織物、特に天然繊維は環境に密接に関わるので、すごく考えますね。特に天然ものは、お米のように年に一度しか収穫できないものが多い。羊の毛も日本だと毛刈りは年に一回。麻や綿も収穫時期がある。対して化学繊維は石油などから作られるので、季節や気候とは関係なく製造できる。便利な一方、それで占められることに懸念があります。日常生活において、人間が自然との距離を広げていくことになり、それはよくないと思うんです。

——そう思いますね。

 日々関わっている衣食住の全てが自然から生まれていて、限られた単位でしか作れないと実感できたら、ものを大事にする気持ちが生まれると思うけれど、今はそうじゃない世の中だと思う。ものとの関わりを繊維を通じて学び、感じてもらうことは大事だと思っています。たとえば絹やウール、綿、麻の材質や肌触り。着る機会があればその気持ち良さがわかるけれど、それが遠のくと興味を持たなくなる。

——スクールの授業では天然繊維を主に扱っているので、その良さと大切さをじんわり感じてもらい、ものとの関わりを見つめ直す方向につながればと私も思っています。中嶋先生のそうした意識は、織物に携わる中で深まっていったのですか?

 そうですね。制作の過程で、自然と材料にも興味を持ちます。どんな経緯で、どんな人たちが羊を育て、現状がどうなっているかというように織物を通して材料から、歴史や社会の動きへと視野が広がります。作っていくことは楽しいし、嬉しい。その一方で難しさも見えてきます。

織り上げたばかりの服地

◆身の回りをあっさりと

——先生がずっと織物を続けてこられた基軸はありますか?

 とにかく好きだからです。そして、あまりいろんなものを背負い込まないようにしています。物を持つと維持に気を配るなどエネルギーを使うので、なるべく身の回りをあっさりしておく。自分なりの価値観があると楽ですね。私は、京都の昔ながらの長屋に住んでいます。そこは3部屋しかなく、一番広くて6畳間。機を二台置いていて、その機と川の字になって寝ているの。そんな作業場のような空間で生活していても、私にとっては不足がない。それで満足できる。それが嫌だったらお金を貯めてアトリエを作るけれど、そのために働く時間を割くのも嫌なんです。時間のある限り織物に費やしたいから、あるもので何とかやりくりできたら、それが一番いい。

——自分なりの価値観は、いつから見えてきたのでしょうか?

 織物と並行してできていますね。織物が形を成していくと同時に、世の中をその時々の目で見ていくと、人それぞれの生き方がある中で、自分はこういう形でものづくりして一生過ごすのがいいと思えるようになりました。作ることが自然と教えてくれる。自分なりにやりたいことをして過ごせているので、これでいいと思っています。

◆織りと山と、最小単位から無限の広がりへ

——時間の速さの尺度でなく、作る過程において時間をかけることの豊かさやゆとりは、すべて自分に跳ね返ってくる。そんな根本が織りにはありますね。さて、中嶋先生を語る上で山登りは外せません。40代で始めたそうですが、織りには体力も必要と見越してのことでしょうか?

 動機は、遊び(笑)。ただ面白いから山に行く。それまでは体力に自信がなくてね、結果的にはよかったと思います。織りは仕事で山は遊びですが、どちらも一生懸命、好きな気持ちがあってこそ続いています。

——山の面白さは?

 日常を忘れて、歩くことに集中する。そうしないと危険な場所もあるので。織りは神経を使うので、神経を休ませてあげるために山に行くのもあるかもしれないです。

——織る時は家に引きこもるので、内と外の活動はバランスがいいですね。

 織物は経糸と緯糸が交差する、最小の単位から始まる小さな世界。山は広くて、自然のスケール感が全く違う。景色を眺めていると、自然の力の計り知れなさを実感します。二つは、私の中でつながってくるんです。織物は、織機の大きさによって幅が決まるので、物理的には有限なもの。ですが、布地として構成される、小さく組み込んだ組織そのものは、果てしなく広がる感覚になる時があります。布は、その中で切り取られた一部というイメージ。織物には、小さな世界から無限の広がりを感じられる面白さがあると感じます。

——先生は、ワークショップを終えた翌日に山に行かれたりして精力的です。そうして気分を変えることも大事でしょうし、行った先に疲れを超える何かがきっとあるのだろうと思います。そんな生き方は魅力的です。

 山歩きを続けていると、以前は同じコースをもっと早く歩けたのに、足場の悪い所を何の恐怖もなく歩けたのに、と気づいたりして体力が落ちていくのがわかります。山も織りも体力が必要。ホームスパンは特にそうです。山は体力がなくなると行けなくなりますが、織物は続ける中で小さな気づきがいくつも重なってきて、自分がやっていることの後押しをしてくれます。

第三回(最終回)へつづく(2020年10月20日更新予定)

中嶋芳子先生インタビュー「一本の糸から」1/3

 川島テキスタイルスクールでは、ホームスパン一筋で教えている専任講師がいます。中嶋芳子先生。スクールで約40年、作家活動はそれ以上の年月続けてこられ、ずっと織物の仕事を「続ける」ことの背中を見せてくれています。本校の卒業生である山本梢恵ディレクターが聞き手となり、中嶋先生にインタビューを行いました。その仕事から生き方まで、たっぷりと語られたインタビューを3回に分けてお届けします。初回は、手織りを始めたきっかけ、工房での修行時代、ホームスパンとの出会いから独学で道を切り開いたことについてです。

◆ デザイン職を辞め、京都の工房に弟子入り

——先生は、京都市立芸術大学でデザインを専攻されていました。手織りとの出会いのきっかけについて教えてください。

 最初の出会いは、川島テキスタイルスクールでした。大学卒業後、名古屋でインテリア関係の会社に就職し、私の仕事は紙の上にデザインを描くことでした。その会社が社員教育に力を入れていて、入社1年目、川島織物(現・(株)川島織物セルコン)がテキスタイルの学校を開校したから勉強してきてほしいと上司から言われたんです。ドビー織の講座を1カ月間受講して、そこで織物が現実に出来上がっていく工程を初めて経験しました。

——スクールで学んで、織りが面白くなったのでしょうか?

 こういう世界があるのか、ひょっとして私、デザインを描くよりも向いているかもしれないと思ったんです。自分で織りたい気持ちが次第に強くなり、会社には申し訳なかったのですが2年ほどで退職しました。それから京都に引っ越し、住処を定めて工房を探し始めました。どこか教えてくれるところはないかと思って、まずは大学の先生に相談。そこから人づてに紹介してもらい、染織家の小谷次男先生の工房に弟子入りすることになったんです。

——こうしたいという思いが強ければ強いほど、必然と人とつながっていく流れはありますね。

 出会いですね。「渡りに船」でした。小谷先生の制作を手伝いながら学び、紙の上に描いて終わりではない、ものづくりの現実を目の当たりにして衝撃を受けました。先生は、本当は織れる人が欲しかったんです。しかし当時の私は即戦力ではなかった。それでもやめろとは言わず、私にできることをさせてくれ、織る前の糸の準備や染色から経験しました。

川島テキスタイルスクール2階アトリエにて 1974年

◆民藝ブームの時代背景で

——そこはどんな工房でしたか。

 先生は紬や絣などの着物を主とし、他にも座布団などの工芸品を木綿、絹、麻、葛布、ウールなど季節に合わせて様々な素材で作っていて、工房には撚糸機などの道具も充実していました。そこでいろんな繊維に触れ、織物の仕組みや成り立ちの基本を学び、様々な織物を知る機会を得られたのはよかったです。

——当時、工房は多かったのですか?

 70年代に民藝(民衆的工藝)ブームがあって、各地で盛んな時代だったと思います。小谷先生も、柳宗悦さんの甥で染織家の柳悦孝さんの織物の弟子として学び、どちらかというと民藝寄りの方でした。

——会社を辞め、生活の安定を手放すことに対して不安はなかったですか?

 なかったですね。あまりよく考えなかったからだと思うけど。学生運動など時代の空気もあったのかな。私ももっと長く会社勤めをしていたら不安もあったかもしれないけれど、若かったので。当時は工房がたくさんあって、作られたものは順調に流通していくと思い込んでいました。自分よりだいぶ年上の人がそうして生活が成り立っていたら、私もいけるだろうと考えた。今から思うと、それはうかつでしたね(笑)。

——時代背景もあったかもしれませんが、何より先生の織物に対する強い意志があってこそだと思います。

 この先どうなるか、全くわからなかったけれど、やりたいという気持ちだけで動いていましたね。

◆独学でホームスパンの道を開く

——ホームスパンと出会ったのはいつですか?

 入口は工房でした。小谷先生が冬になると手紡ぎのマフラーを織っていたので、私は原毛を洗ったり、染めたり、毛をほぐしたりといった準備をしていました。その後の糸紡ぎの工程はアメリカ人の留学生が担っていて、それを見ながらウールもこうしたら織物になるのかと、一連の流れをそこで知りました。

 本格的な出会いは個展。先生の兄弟弟子に、蟻川紘直さんという盛岡(岩手県)でホームスパンの工房をされている方がいます。その方が京都で個展することになり、先生がお手伝いに行ったんです。私も観に行き、そこで初めてホームスパンの服地を見て、手織りでこうもできるのかと大きな衝撃を受けました。

——第二の衝撃。そこで羊毛に出会われた。

 はい。工房での見習いは2年で区切りをつけたのですが、自分がこの先どんな織物をしていくのか、はっきりしていなかったんです。木綿や絹でも織ってみたけれど今一つしっくりこなくて、個展での出会いを機にウールにしようと決めました。私自身、デザイン科で勉強してきたこともあって、実用性に魅力を感じます。服だと日常に使えるし、感覚的に毛(羊毛)が好きというのもありました。自ら作った織物を生活の中で使えるという観点を得られたのは、私にとっては大きかったですね。

——ホームスパンは独学ですか?

 独学です。また別の工房に弟子入りしたとしてもお給料はないので、経済的に自前でやって行かないといけない。勤めを辞めて蓄えもそんなになく、自分でやろうと思って始めたんです。たくさんの人や布と出会い、本やワークショップで学びながらだったので雲をつかむような話ではなかったの。小谷工房で見聞きしていたウールを自分なりにやり始めたり、蟻川先生の講座に参加したりして、いろんな所でいろんな人にお世話になりながら自分で組み立ててきました。

——最初から独学で始められたのがすごいです。

 学びは、人から教えてもらわないとできないものばかりではないですから。ホームスパンは昔から家庭で行われてきているし、そんなに難しいことのようには思わなかったです。難しさを理解していなかったのもありますね。

——糸も織物も、正解も間違いもない。そこを追求されたということですよね。

 他と比べようがないから自分の判断で進める。紡いで織るだけでも結構手間がかかることなので、最初は作れたというだけで達成感がありました。

第二回へつづく(2020年10月12日更新予定)

堀勝先生インタビュー「染がたり」 3/3

 川島テキスタイルスクールは、設立から47年続いている歴史の中にあります。熟練の染色の専門家で、スクールの専任講師として20年以上教えている堀勝先生に、本校の卒業生である近藤裕八講師が、このほどインタビューを行いました。3回シリーズの最終回は、技術継承について、堀先生にとっての染めとは、健康の源、80歳を越えた今の思いなどについて語っていただきました。

第一回

第二回

◆  技術は継承されている

——先生は川島織物で定年まで勤め上げ、その後スクールで教えて、合わせて62年以上も糸染めに携わっておられます。

 実は、定年の約3年前に染色室の配属から外れて、別部署に配属されたことがありました。その時の上司が、私の入社時に同じ染色部門で働いていた人で、「せっかく染色の技術があるのにもったいない。会社としても損失だ。何とか生かそう」と考えてくれて、ちょうど前任者が辞めるタイミングも重なってスクールへの配属が決まった。もしその上司との出会いがなければ、私はそのまま定年を迎えて退職し、染色を続けられていなかった。そんな経緯があって今、私はここにおります。

——そんなことがあったのですか。知らなかったです。

 配置転換にあたってその上司から、「ただ教えるだけではあかん。川島織物の技術を継承しているという思いを持って、教務にあたってほしい」と言われたことが、今でもすごく印象に残っている。だから教える時、その言葉が常に頭にあって、いい加減な教え方をしたらあかんと気を引き締めています。

 開校時(1973年)、このスクールはただ教えるだけではなく、手織り文化の拠点にするという社長の強い思いがありました。それにメセナと言って、当時、企業による文化や芸術支援の風潮が日本全国に広まっていた。川島織物も、織物の文化・手織りの技術で社会に貢献するという構想があって作られた学校で、私がスクールに来た時(1996年から引継ぎで兼務、99年から専任)、ここは技術者や研究者、作家、織物の設計や分解に至るまで、手織りに関するすべてが集まる場になっていた。近藤先生の時はありましたか? 設計や分解の講座。

——ありました。「機織論」という授業で、織物の設計図を作成するにあたり、実際の織物を分解して読み解き、組織図を書いたり、密度や素材を調べたりしました。今は分解の授業は行っていませんが、基礎織や天秤機など他の授業で組織図の勉強をします。こういう授業があるのは、文化財の修復も担う川島織物だからかもしれませんね。

 スクールの使命の大きな一つは、川島織物の手織りの技術、織物の文化を継承すること。開校当初は、一流の技術を持った人たちがここに集って技術と文化を教えようという高い理想があって、生徒を募集していた。それが世代交代で段々と人が変わる。人が変わっていく中で継承をどうするか? このスクールは川島織物の技術者が教えるのが始まりやったやけど、年月が経ったらそういうわけにはいかずに、修了生が先生になる。元々、川島の先生に教えてもらったわけやから、今でも技術は継承されていると私は思ってるんや。

授業前の素振りは長年の日課

◆少しでも皆さんの役に立てたらいい

——先生は、スクールだけでも20年以上勤めておられます。続けることのモチベーションはどこから?

 スクールに来た当初は技術の継承ということを強く意識したけど、実際に教え始めてからはあまりそのことは考えんようになりました。でも20年間同じことの繰り返しではあかんから、その年によって少しずつ内容を変えています。学生たちが次々と新しいことを言ってきて、私もその度に新しい発見がある。特に専門コースの2年目、専攻科の人たちは具体的な目標を持って独自の制作をするから想像しないことも言ってきて、その度に一緒に考える。教えて終わりではなくて、いろんな交わりがあるのが楽しいな。だから毎年、今年はどんな生徒さんが入ってきて、どんなものを作るのかという楽しみが、一つの大きなモチベーションやな。

——ずっと染めと共にある人生。そんな先生にとっての染めとは?

 人とのつながりやと思います。専門コースの学生とワークショップ受講者を合わせて毎年100人ぐらい教えていて、それを20年続けていたら2000人超。それだけ多くの人との交わりがある。常々思っているのは、受講してもらった人に「ありがとうございました」と言って帰ってもらうのが最高の幸せですわ。スクールに来る人は習いたいという熱意があるから、一生懸命取り組む人が多い。やりたい人を教えるのが一番の大きな幸せ。私はよく「にこやか」とか「穏やかな性格」とか言われますが、ありがとうと言われることで、自然とそういう性格になっていくのかなという思いもある。にこやかに人と接していられるから。

——先生はゴルフにも精力的に取り組んでおられます。先生にとってゴルフとは?

 切っても切れない健康の源なんです。気力も体力も保てるから。ゴルフができんようになったら仕事をやめる時やな(笑)。スクールの仕事にはストレスはまったくない。普通の職場になると人間関係が複雑になってストレスを抱えたりするけど、ここは職場というより工房という感じ。ストレスがあるのはゴルフの方(笑)。いいバランスでできていて、それが健康にもつながっている。ゴルフは35歳ぐらいから始めて、もう50年近くになります。ゴルフができるのは仕事のおかげかもしれんし、一生懸命仕事してのゴルフやから楽しみも倍増する。

——スクールで学びたい人に伝えたいことはありますか?

 他の学校と違うのは、技術を継承して学んでほしいという思いが底辺に流れていること。それに伴う設備が充実していること。深い理念のもとに教えているから、より深い染織の技術を学べる。

 それは、先生をはじめ、今のスクールに関わる人たちにも伝えたいこと。開校当時の川島の思いを胸に置きながら接してほしい。その思いを持っていると、生徒たちにも段々と通じてくると思う。ただ教えるだけとは違う。その思いを感じてほしいなと思います。

——この川島テキスタイルスクールが、設立からもうすぐ50年を迎えるという歴史の中で、この学校の理念や技術など受け継がれたものがあること。それを堀先生の口から直接聞いて、改めてそうだなと感じました。僕は学生から始まり、ここで専任講師として過ごす中で、時代の変化とともに、スクールに学びに来られる方々の作りたいものが変わってきていると感じます。すべてが昔のままではやっていけない部分もありますが、根本的な技術や、ものづくりに対する姿勢は変わらないので、大切に伝えていきます。今日はありがとうございました。

 私も、こんなインタビューの機会がなかったら、自分の仕事を振り返らへんからな。改めて見つめることができました。ありがとうございました。

 最後に伝えたいことがあります。私は今、自分が頑張るというより、少しでも皆さんの役に立てたらいいという気持ちが強いです。それはスクール設立の理念、企業の社会貢献に通じるもの。それが今、80歳を越えて、わき出る私の思いです。

おわり

堀勝先生インタビュー「染がたり」 2/3

 熟練の染色の専門家でスクールの専任講師である堀勝先生のインタビューの第二回です。染めを教える上で大事にしてきたこと、学生から染色の魔術師と呼ばれたエピソードなどについてお話を聞きました。聞き手は、近藤裕八講師です。

第一回

◆家で自分で染められるように

——普段、先生と接していると、染色に対する探究心を感じます。

 私はただ、今までの経験を伝えているだけ。特に手織りの糸染めの作業の基本は、今も昔も変わらない。ただ、ねじり染や、ぼかし染、ぶっかけ染などの特殊な染め方を考えています。

——年齢を重ねていくと頑固になりがちと言いますか、僕たちや若い世代の意見を聞き入れにくくなる部分があるのかなと思うのですが、堀先生は柔軟に受け入れて、こうしようと提案してくださいます。

 楽しく染色に取り組んでほしいからな。染色に失敗はつきもの。色が合わなかったら染替えしたらいいし、配色を替えてもいい。むら染になっても織物になったらかえって面白い場合もある。染色は頑固になるような仕事ではないで。たかが染色されど染色。ただ、糸だけは丁寧に扱ってほしい。糸さえ弱らず乱れてなかったら何とでもなるから。

——今、染色が面白いと思うことはありますか?

 自分が染めるよりも、私が教えた人が、色合わせが上手になるのを見るのが好きやな。

——スクールで教える上で大切にしてきたことは?

 習った人が、家にある設備で、自分で染められるようになることを心がけて教えています。ただ染めるだけとは違って、染める前にもいろいろな工程があるから、その一つひとつのコツを教えてあげようと思って実践している。糸のひねり方、綛の置き方、脱水機にかける時の糸の置き方など、糸の扱い方一つにも、それぞれ細かなコツがいろいろあるんです。

——授業中は作業に必死で、すぐにピンとこないこともありますが、僕も学生の時に、先生の指導内容をノートに記して後で読み返していました。一人でやる時に、その細かな一つひとつが大切だなと実感します。

 在学中は、私も手助けするから一緒に染められるけど、卒業後、本人が自分で染められるようになってほしいから。染めること以上に、前後の作業工程のアドバイスも私の大きな仕事。これは、私だから教えられることと思っています。

 もう一つ、データ見本を持つことが必要。これから本格的に染めをする人は、まずはデータ見本を作成してほしい。それは、ここの学生だけではなく、織物をする人に広がっていってほしいな。

1990年代初頭の川島テキスタイルスクール染色室にて

◆データ見本作成はスクールの財産

——データの整備。

 私がスクールに配属になった時は勘染め*しかなかったから、第一にデータを整備したんです。基本染法を教えるのも大事ですが、自分で染められるようになるためには、まずデータ見本を持つことが必要。化学染色では染料を配合しないと思った色が出ません。天然染色で色合わせは不要で、基本染法さえ覚えたら色がそれなりに出るから、初めて染める人は草木で染める人が多い。ただ草木は発色の限度があるから、データ作成を兼ねて化学染色の受講を希望する人も多いです。

*勘染め:データがなくても、自分の勘で染料(黄・赤・青の3原色)を入れて、色を合わせていく技術。

——スクールの染色データは、堀先生が来られてから築かれたのですね。

 データ作成講座はスクールの財産です。一般の人は自分で作ったデータ見本を持つことから始めてほしい。ただ、データを持つだけではまだ不十分。色は無制限にあるから、自分の染めたい色が見本にない時はデータ修正が必要になる。データをどう動かしていけばいいかわからない時に、勘染めの技術が必要になってくる。そこでスクールでは、データ作成と勘染めをセットにして習ってほしいと言っています。今、スクールには糸種毎に120〜130色位のデータがあります。

——先生は学生の間で、染色の魔術師と言われていたそうですね。

 授業中、糸をグリーン系に染めたかった学生が、誤ってピンク色に染めてしまい、また新しい糸を使って染めようとしていたことがありました。そこで、新しい糸を使わずに、そのピンクの上から勘で染料を加えて、一瞬にして本人が望むグリーン系の色に変えたところ、それを見た学生たちから「先生、魔術師みたいやな」と言われたこともあったな。

——ワークショップでも、染めの実習を時間内で目一杯されています。その理由は?

 ワークショップは、その目的だけで参加してもらっているから、皆、集中力があるし、遠方から参加してくれる人も多いので、できるだけ多くの成果を持って帰ってほしいという思いもあるな。限られた時間内で作業の段取りを考えるのも勉強になるし、その方が終えた後の充実感が大きいと思う。それは参加者本人が、学びたいという強い気持ちで来てくれるからできること。専門コースは年間を通しての授業やからあまり詰め込み過ぎずに、留学生は習慣が違うからきっちり休憩時間が必要やけどな。

——教えることは、先生にとって第二のキャリア。

 第二のキャリア築こうと思って来たわけではないで。この年齢(81歳)になるまで働くとは思ってなかったから(笑)。ありがたいこっちゃと思ってるんやで。この染色の仕事をやっていてよかったという思いは、事あるごとに浮かんでくるな。入社当時は染色が嫌だったのを辛抱した結果、今に至るから、あの時辞めなくてよかったなという思いでいます。

第三回(最終回)へつづく(2020年9月29日更新予定)

堀勝先生インタビュー「染がたり」 1/3

 川島テキスタイルスクールでは、熟練の染色の専門家が専任講師として教えています。堀勝先生(81歳)。(株)川島織物(現・(株)川島織物セルコン)の染色部門に42年、定年後、スクールに配属され、糸染めの基本から、植物・化学染色とデータ作成、勘染めを20年以上教えている頼りになる存在です。高度な専門性と穏やかな人柄で、国内外からの受講者に広く人気がある堀先生に、このほどインタビューを行いました。聞き手は、本校の卒業生である近藤裕八講師です。染めと共に歩んできた仕事を振り返りながら、たっぷりと語られたインタビューを3回に分けてお届けします。初回は、染色との出会い、糸染めの基本動作から色合わせの勘どころ、皇居関連施設の内装などに携わったエピソードについてです。

◆勘で染める究極、糸が呼ぶ

——染色の仕事との出会いについて教えてください。

 高校卒業後の就職先が(株)川島織物(以下、「川島織物」と記す)で、配属先が染色部門だったのが始まり。高校は工業系で、化学、機械、紡織の3つの科のうち、当時(1950年代)は就職難で、就職がしやすいからと親に言われて、化学科に進んだ。入社後は、美術工芸織物の染色部門に配属され、当初はあまり好きになれずに最初の1〜2年は嫌やな〜と思いながらやっていたんです。親からは「石の上にも三年」頑張れとよく言われてな。でも定年までずっと染色一筋でやってきたおかげで今があるわけで、染色部門に配属されてよかったなあと今は思ってるんやで。

——手染めは、未経験から始められたのですか?

 そう。当時はまだ染色機械はなくて、全て手染め。2人1組になって10〜20キロの糸を毎日染めてたんです。我々新人は相棒と呼ばれ、染色前の染色棒に糸を掛けたりする前準備をし、染色後に水洗や脱水をする下働きを2年ぐらい。夏は蒸気で暑く、水を含んだ糸は重くて過酷な労働やったな。

——その中で、仕事は見て覚えたのですか?

 見て覚えるというよりは、まずは染色の基本動作を身につける。染色時の染浴の中での糸の動かし方や繰り方、水洗時の洗い方、糸を干したり、ねじったりする時のやり方など、ただ染めるだけでなく糸を乱さない扱い方をだいぶ教えてもろたな。色合わせの工程は、まだまだ先のこと。

——染めの後には織りの作業があるので、初めの段階で糸が乱れると、次の工程に影響が出てしまいますから必要な作業ですね。そこから染色に移ったきっかけは?

 人員の高齢化と、仕事量が多くなったことで、私も少しずつ色合わせの作業をやらせてもらうようになったんです。染色とは、まず色合わせをすること。色合わせはプロでも難しく、ある程度は教えてもらうんやけど、上達するには自分の能力と勘が大事。

——勘を鍛えるのに心がけたことはありますか。

 数多く染めることに尽きる。色合わせは人に教えてもらっても上手くはならへんな。人に教えてもらったことはすぐに忘れてしまうから。染料は自分の勘で入れていくけれど、世の中に色は無限にあるから、あらゆる色を染められるようになるためには3〜4年、それ以上かかる。勘で染める究極は、染色中に染糸を見たら、今、糸がどの染料をどれぐらいほしいか糸が呼んでいるようになります。色を見たら、あの染料とこの染料を何対何位で入れるということが、実際に染めなくても頭によぎる。当時は日常生活で散歩していても、何か珍しい色に出会うとそんなことを考えながら歩いてたな。

1958年の(株)川島織物色染工場。当時19歳の堀先生は前列右から二人目。

◆染料の能力を100パーセント出す

——染色の工程の業務に就いてからは、どんなお仕事をされてきたのですか?

 緞帳、山車幕、着物の帯地や文化財の復元も。趣味で染めている時は染色も楽しいかも知れんけど、仕事となるとそういうわけにはいかへん。納期もあるし、製品になってからの品質の責任もあるし、色が落ちるというクレームもある。色が落ちるということは、もちろん使っている染料の能力もあるけれど染め方も悪いということ。いつもその染料の能力を100パーセント出してやるような染め方をするように心がけてきたな。

——42年を振り返って、その中でも楽しかった仕事はありますか?

 日常業務以外に、特注の製品を手がけた時は、ああ染色をやってよかったなと思うことが時々あったな。長い染色生活で見たら、ほんまに一瞬のことやけど。

 当時、天皇・皇后両陛下が乗車される御料車(お召し列車)という特別列車の内装(カーテン、椅子張り等)や、赤坂迎賓館の造営の内装の紋ビロード壁張りなど、皇居関連施設など宮内庁の織物の仕事の染色に携わったことが多くありました。その中でも印象深いのは、「即位の礼」(令和元年10月22日)が挙行された皇居正殿松の間の仕事。天皇陛下の御座の後ろに、紫地に金糸で大王松という松の柄を織り込んだ大きなつい立てが置かれている。そのつい立ての織物を、最初の色出しから本番まで染めました。紫でもいろいろあるけれど、特にあの色は帝王紫という名前がついているほど高貴な色。設計の担当者と何度も打ち合わせてテスト染めをし、本番でやっと「この色でいいです」と言われた時は嬉しかったな。正殿松の間がテレビに映ると、その仕事を思い出します。国の公式行事等で織物がテレビに映った時、帝王紫の色合いを是非見てほしいです。

 それから、奈良・法隆寺近くにある藤ノ木古墳の仕事もありました。発掘調査の結果、見つかった石棺があって、その中に葬られていた人が着ておられた織物を復元するプロジェクトの一員として参加。それまでは日常業務に追われていたのもあって染色の歴史や古代の染色にあまり興味はなかったけれど、これを機に、参考文献を読んで勉強したな。

第二回へつづく(2020年9月23日更新予定)